
クフ王
在位 前2589〜前2566年ごろ
史上最大のピラミッドを造らせた王。ところが、確実に本人とわかる像は、高さわずか7.5cmの象牙の小像(写真)ひとつだけです。
会える場所:1/4 ギザのピラミッド
写真:Mortel(CC BY 2.0)
2027年1月 エジプト縦断の旅のための読み物
ピラミッドも神殿も、「いつ、だれが、なぜそこに造ったのか」を知ってから見ると、同じ石がまったく違って見えます。出発前に第1章から第5章までをゆっくり読み、現地では第6章を開いてください。

今回の旅は、エジプトを北から南へ飛び、南から北へ船で戻ってくる8日間です。見る遺跡は、古いものは約4,600年前のピラミッド、新しいものは約2,000年前のギリシャ系の王の神殿で、そのあいだには2,500年以上の開きがあります。そのうえ、1960年代に湖に沈むはずだった神殿を丸ごと切り出して移した、現代の大工事の跡も見ます。
この予習帳は、遺跡を「仕組み」から読むためのものです。第1章から第5章で、ナイル川・太陽・時間という3つの鍵、時代の地層、人物、神々、文字をおさえます。第6章は現地で開く案内で、日ごとに「ここを見る」をまとめました。第7章からあとは、食事や買い物、言葉、現地での心得です。名前をヒエログリフで書く欄や、値札の数字を読む道具もつけました。
ナイル川、太陽の向き、そして3,000年という時間。この3つがわかると、遺跡の多くは読み解けます。
エジプトの国土の9割以上は砂漠です。それでも約5,000年前にこの地に大きな国ができたのは、ナイル川があったからです。宇宙から見ると、エジプトは茶色の砂漠のなかに、緑の線が1本通っているだけの国だとわかります。人が住み、畑が広がるのは、この細い帯と、北の三角州(デルタ)だけ。今もエジプトの人の大部分は、この緑の部分に暮らしています。

古代エジプトの人は、自分たちの国を「ケメト(黒い土地)」と呼びました。毎年夏になると上流から洪水がやってきて、黒く肥えた泥を畑に置いていったからです。その外側の砂漠は「デシェレト(赤い土地)」。黒い土地と赤い土地の境目は、今でも一歩でまたげるほどくっきりしています。バスの窓から、畑が急に砂漠に変わる場所を探してみてください。
暦も洪水を中心に回っていました。1年を「アケト(増水)」「ペレト(種まき・生育)」「シェムウ(収穫)」の3つの季節に分け、夜明け前の東の空に明るい星シリウスが現れるころを新年としました。ちょうど洪水が始まる時期です。
洪水が大きすぎると村が流され、小さすぎると飢饉になります。そこで神殿には「ナイロメーター(水位計)」が造られました。水位の記録から収穫の見込みを立て、それをもとに税を決めたのです。1/7に訪ねるコムオンボ神殿には、井戸の形をしたナイロメーターがあります。


ナイルは道路でもありました。川は南から北へ流れ、風は一年の大半、北から吹きます。だから、北へ行くときは流れに乗り、南へ行くときは帆を張れば進めました。ヒエログリフでは、「北へ行く(川を下る)」という言葉に帆をたたんだ船𓊛を、「南へ行く(川をさかのぼる)」という言葉に帆を張った船𓊝を添えます。言葉そのものに、この川の仕組みが刻まれているのです。
上流の南を「上エジプト」、下流の北を「下エジプト」と呼びます。アスワンやルクソールは上エジプト、カイロは2つの国の境目のあたりにあります。古代の王は「上下エジプトの王」と名乗りました。
何千年も続いたこの仕組みを終わらせたのが、1970年に完成したアスワン・ハイダムです。洪水はなくなり、1年中畑に水を引けるようになりました。代わりに、肥えた泥はダム湖の底にたまるようになりました。このダムの話は、第6章の1/5でくわしく読みます。
太陽は毎朝、東から昇り、夕方には西に沈みます。古代エジプトの人は、太陽は夜のあいだ地下の冥界を旅して、朝にまた生まれてくると考えました。だから東は誕生の方角、西は死者の国の方角です。亡くなった人を「西の人々」と呼んだほどです。

そのため、墓やピラミッドは、たいていナイルの西岸に造られました。ギザのピラミッド(1/4)も、王家の谷(1/9)も西岸です。いっぽう、生きている人の町と、毎日神々に祈りをささげる神殿は東岸にありました。ルクソールでは、この配置が一目でわかります。川をはさんで、東岸にカルナック神殿とルクソール神殿、西岸に王家の谷と葬祭殿が向かい合っています。
アブシンベル神殿(1/5〜6)は、ナイルの西岸の岩山を掘って造られ、入口は東を向いています。年に2回、朝日が神殿のいちばん奥まで差し込むように設計されていました。この仕組みは第6章で図を使って読みます。
古代エジプトの文明は、ピラミッドの時代からクレオパトラまで、およそ3,000年続きました。数字が大きすぎて実感しにくいので、比べてみます。クフ王のピラミッドからクレオパトラまでは約2,500年。クレオパトラから今回の旅までは約2,050年です。クレオパトラは、ピラミッドを造った人々よりも、私たちのほうに近い時代の人なのです。
図は横にスクロールできます。
ツタンカーメンにとっても、ピラミッドは1,200年前の遺跡でした。古代のエジプト人自身が古い遺跡を訪ね、修理をし、壁に落書きを残しています。スフィンクスの前足のあいだに立つ「夢の碑文」(1/4)は、その証拠のひとつです。
今回見る遺跡は、おもに3つの時代に集まっています。ピラミッドの「古王国」、アブシンベルや王家の谷の「新王国」、そしてクルーズで訪ねる神殿の「プトレマイオス朝」です。プトレマイオス朝は、アレクサンドロス大王の部下が開いたギリシャ系の王朝で、王たちはエジプトの伝統にならって古い様式の神殿を建てました。クルーズで見る神殿は、見た目は古代エジプトそのものですが、ピラミッドより2,300年ほど新しいのです。
エジプトの遺跡は、新しい時代が古い時代の上に積み重なってできています。
地層は、新しいものほど上に積もります。エジプトの遺跡も同じです。ルクソール神殿の中庭には、古代の神殿の上に中世のモスクが建っていて、モスクの扉は今の地面よりずっと高いところにあります。モスクが建てられたころ、神殿は砂と土に埋もれていて、地面はあの高さにあったのです。19世紀に神殿を掘り出したとき、モスクだけが元の高さに残りました。

今回の旅で見るものを、時代の層ごとに並べました。上ほど新しく、下ほど古い層です。
ナポレオンの遠征(1798年)でロゼッタ・ストーンが見つかり、1822年にヒエログリフが解読されました。そこから発掘の時代が始まり、スエズ運河、ハイダム、遺跡の移設、そして2025年の大エジプト博物館へと続きます。
1/4メナハウス、大エジプト博物館 1/5ハイダム 1/5〜7アブシンベルとフィラエの移設 1/9カーター・ハウス
アラブの軍が来て、アラビア語とイスラームが広まりました。今のエジプトの言葉と暮らしは、この層の上にあります。
1/8ルクソール神殿の上のモスク 毎日町に響く祈りの呼びかけ
クレオパトラの死後、エジプトはローマの領土になりました。キリスト教が広まると、神殿は教会に使われ、神々の顔が削られたり、壁に十字架が刻まれたりしました。
1/7フィラエ島の十字架、トラヤヌスのキオスク 1/8エドフ神殿の黒いすす、ルクソール神殿のローマ時代の壁画 1/9「歌う」メムノンの巨像
アレクサンドロス大王の部下プトレマイオスが開いたギリシャ系の王朝。王たちはエジプトの神々を敬い、古い様式の神殿を各地に建てました。最後の女王がクレオパトラ7世です。
1/7フィラエ島のイシス神殿、コムオンボ神殿 1/8エドフのホルス神殿
都テーベ(今のルクソール)を中心に、エジプトがいちばん栄えた時代。王たちはピラミッドをやめ、王家の谷に墓を隠しました。
1/4ツタンカーメンの財宝 1/5〜6アブシンベル 1/8ルクソール神殿 1/9王家の谷、ハトシェプスト葬祭殿、メムノンの巨像、カルナック神殿
王の力がもっとも強く、巨大なピラミッドが造られた時代。
1/4ギザの三大ピラミッドとスフィンクス
今回の旅でもっとも多くの遺跡を見るのは、新王国です。王たちを時間の順に並べると、だれの遺跡をどこで見るのかがつながって見えてきます。
図は横にスクロールできます。
とくに第18王朝の終わりは、ドラマのような時代でした。アクエンアテンは数多くの神々を退け、太陽そのものを表す神アテンだけを崇めて、都まで移しました。その子とされるツタンカーメンは9歳ほどで王になり、父の改革を元に戻します。そして10年ほどのち、18〜19歳で亡くなりました。王家の血はそこで途切れ、軍人出身の王ホルエムヘブのあと、ラムセス家の第19王朝が始まります。
第18王朝(終わりごろ)
第19王朝
矢印は王位の受け渡しを表します。親子とはかぎりません。
旅のあいだに名前が何度も出てくる12人です。

在位 前2589〜前2566年ごろ
史上最大のピラミッドを造らせた王。ところが、確実に本人とわかる像は、高さわずか7.5cmの象牙の小像(写真)ひとつだけです。
会える場所:1/4 ギザのピラミッド
写真:Mortel(CC BY 2.0)

在位 前1479〜前1458年ごろ
男性の王として即位した女王。像では付けひげをつけ、王の頭巾をかぶる。死後しばらくして、名前や姿が削られた。
会える場所:1/9 葬祭殿、カルナックのオベリスク
写真:メトロポリタン美術館(CC0)

在位 前1390〜前1352年ごろ
新王国がいちばん豊かだった時代の王。ルクソール神殿を建て、メムノンの巨像(写真)は彼自身の像。
会える場所:1/8 ルクソール神殿、1/9 メムノンの巨像
写真:MusikAnimal(CC BY-SA 4.0)

在位 前1353〜前1336年ごろ
太陽神アテンだけを崇める改革を行い、都をアマルナへ移した王。写真は大エジプト博物館にある頭部。
会える場所:1/4 大エジプト博物館
写真:Richard Mortel(CC BY 2.0)

在位 前1332〜前1323年ごろ
9歳ほどで即位し、18〜19歳で亡くなった若い王。墓がほとんど荒らされずに見つかり、世界でいちばん有名なファラオになった。
会える場所:1/4 黄金のマスク、1/9 王墓
写真:Roland Unger(パブリックドメイン)

在位 前1290〜前1279年ごろ
ラムセス2世の父。王家の谷でいちばん長く、いちばん美しいと言われる墓を造った。写真はアビドスの神殿で、神に供え物をささげる王の浮き彫り(左端の人物)。
会える場所:1/9 王家の谷
写真:Roland Unger(CC BY-SA 3.0)

在位 前1279〜前1213年ごろ
約66年も王位にあり、子どもは100人以上とされる。各地に巨像と神殿を建て、自分の名を刻ませた。
会える場所:1/5〜6 アブシンベル、1/8・1/9 ルクソール
写真:Pbuergler(CC BY-SA 3.0)

前13世紀
ラムセス2世の最愛の王妃。アブシンベル小神殿では王と同じ大きさの像で表された。写真は墓の壁画で、盤上遊戯セネトをする姿。
会える場所:1/5〜6 小神殿
写真:ネフェルタリ墓の画家(パブリックドメイン)

前69〜前30年
プトレマイオス朝最後の女王。この王朝で初めてエジプトの言葉を話せた王だと伝えられる。その名前はヒエログリフ解読の鍵になった。
会える場所:1/7 フィラエ島
写真:José Luiz(パブリックドメイン)

1790〜1832年
1822年、ヒエログリフの読み方を解き明かしたフランスの学者。1,400年以上読めなかった文字が、ふたたび読めるようになった。
会える場所:第5章
写真:レオン・コニエ(画)(パブリックドメイン)

1874〜1939年
1922年、ツタンカーメン王墓を見つけたイギリスの考古学者。発掘の資金を出したのはカーナヴォン卿。
会える場所:1/9 カーター・ハウス
写真:シカゴ・デイリー・ニューズ(パブリックドメイン)
1918〜1970年
エジプトの大統領。1956年にスエズ運河を国有化し、ソ連の協力でアスワン・ハイダムを完成させた。ダム湖の名前は彼にちなむ。
会える場所:1/5 アスワン・ハイダム
頭の形と冠を見れば、名札がなくても、だいたい誰かわかります。
神殿の壁は神々でいっぱいです。古代エジプトの神は、動物の頭、冠、手に持つ物で見分けられるように描かれました。ハヤブサの頭ならホルスかラー、ワニならソベク、ジャッカルならアヌビス。左の記号は、それぞれの神を表すヒエログリフです。
ハヤブサの頭に太陽の円盤
太陽の神。昼は船で空を渡り、夜は冥界を旅して、朝にまた生まれる。
アブシンベル大神殿の入口の上と至聖所(1/5〜6)
2本の高い羽根飾りの冠
テーベ(ルクソール)の守り神。太陽神ラーと合わさって「神々の王」になった。
カルナック神殿、ルクソール神殿(1/8〜9)
体にぴったりの衣と、ぴったりした帽子
職人の神で、言葉で世界を造ったとされる創造の神。古都メンフィスの神。
アブシンベルの至聖所。朝日が届かない1体(1/6)
白い冠、ミイラの姿、緑か黒の肌
冥界の王で、よみがえりの神。手に曲がった杖と殻竿(からざお)を持つ。
王墓の壁画(1/9)、フィラエ島(1/7)
頭に玉座の形の飾り
オシリスの妻で、ホルスの母。魔術と母の愛の女神。のちには牛の角と太陽の円盤もかぶる。
フィラエ島のイシス神殿(1/7)
ハヤブサ、またはハヤブサの頭の男性
王を守る神。生きている王はホルスの化身と考えられた。
エドフのホルス神殿(1/8)、コムオンボ神殿(1/7)
正体のわからない動物の頭(長い鼻、四角い耳)
砂漠と嵐の神。兄オシリスを殺した悪役だが、太陽の船を守る力持ちの面もある。
エドフ神殿の壁ではカバの姿で退治される(1/8)
牛の角のあいだに太陽の円盤、牛の耳の女性の顔
愛と音楽と母の女神。柱の上に顔だけ彫られていることも多い。
アブシンベル小神殿(1/5〜6)、ハトシェプスト葬祭殿(1/9)
ワニの頭
ナイルの水と豊かさの神。ワニの多い土地で大切にされた。
コムオンボ神殿とワニの博物館(1/7)
黒いジャッカル(イヌ科の動物)の頭
ミイラ作りと墓の守り神。死者の心臓をはかる場面にもいる。
王家の谷の壁画(1/9)、ハトシェプスト葬祭殿の礼拝堂
トキ(くちばしの曲がった鳥)の頭。ヒヒの姿のことも
文字と知恵の神。死者の裁判では記録係をつとめる。
各地の神殿と墓の壁画
ねじれた角の雄羊の頭
ろくろで人間を形づくる神。ナイルの水源を守る神としてアスワンやエスナで祀られた。
エスナの町の神殿(1/8、今回は寄らない)
頭に1本のダチョウの羽根
真理と秩序の女神。死者の心臓は、マアトの羽根と天秤ではかられた。
王が神にマアトの像をささげる場面(各地の神殿)
弓なりの体で空をおおう女神
天空の女神。夕方に太陽を飲みこみ、朝にまた産むとされた。体には星が描かれる。
王墓の天井(1/9)


神々の王オシリスは、弟のセトにねたまれて殺され、体をばらばらにされてしまいます。妻のイシスは国中をめぐって体を集め、魔術でよみがえらせて、息子のホルスを身ごもりました。オシリスは冥界の王となり、成長したホルスはセトと戦って王位を取り戻します。
この神話は、王の仕組みそのものでもありました。生きている王はホルス、亡くなった王はオシリスになると考えられたのです。そしてこの神話の舞台が、クルーズの航路に並んでいます。

王の像や浮き彫りでは、冠を見ると何を表しているかがわかります。
もうひとつよく出てくるのが、青と金の縞の頭巾「ネメス」です。スフィンクスやツタンカーメンの黄金のマスクがかぶっています。マスクの額には、コブラとハゲワシが並んでいます。コブラは下エジプトの女神ウアジェト、ハゲワシは上エジプトの女神ネクベト。2つの国を治める王であることを示す、ひとそろいの守りです。
絵のように見えて、ちゃんと音を表す文字です。しくみは、漢字とかなをまぜて書く日本語に少し似ています。

1文字で子音1つを表す文字が約24個あり、アルファベットのように使えます。ほかに、子音2つや3つを表す文字もあります。
絵がそのまま意味を表します。𓇳は「太陽」、𓉐は「家」。漢字の象形文字と同じ考え方です。
読まずに語の最後につけて、意味の種類を示します。座った男性𓀀なら男の人、座った女性𓁐なら女の人に関わる語です。
ヒエログリフは、母音をふつう書きません。だから古代の正確な発音には、今もわからない部分があります。「ツタンカーメン」も「トゥトアンクアメン」も、後から母音を補った読み方です。
人や動物の顔が向いている側から読みます。顔が左を向いていれば左から右へ、右を向いていれば右から左へ。縦に並べて上から読むこともあります。神殿の壁では、同じ言葉が左右対称に向き合って刻まれていることがよくあります。
王の名前は、いくつかの部品の組み合わせです。部品をいくつか覚えておくと、壁のカルトゥーシュ(王の名前を囲む楕円の枠)から、だれの名前かを当てられるようになります。
| 部品 | 読み・意味 | 入っている名前 |
|---|---|---|
| 𓇳 | ラー(太陽神) | ラムセス、メンマアトラー(セティ1世の即位名) |
| 𓄟 | メス(生む) | ラムセス(ラーが生んだ者)、トトメス(トト神が生んだ者) |
| 𓇋𓏠𓈖 | アメン(神の名) | アメンホテプ(アメンは満足する)、ツタンカーメン |
| 𓊵 | ホテプ(満足・やすらぎ) | アメンホテプ |
| 𓋹 | アンク(生命) | ツタンカーメン(アメンの生ける姿) |
| 𓄤 | ネフェル(美しい・よい) | ネフェルタリ(美しい伴侶)、ネフェルティティ(美しい人が来た) |
ひとつ、おもしろい決まりがあります。神の名前は、敬意を表して先頭に書くのです。だからツタンカーメンのカルトゥーシュは「アメン」から始まりますが、読むときは「トゥト・アンク・アメン」の順にします。
本物のカルトゥーシュでは、記号は上下にも組み合わせて四角く詰めて書かれます。ここでは横一列に並べました。

神殿の壁には、同じ記号が何度も出てきます。とくに「𓋹𓊽𓌀」が並んでいたら、「生命・安定・力」。神が王に授けるひとそろいの言葉です。
おみやげ店では、名前をヒエログリフで刻んだ銀や金のカルトゥーシュを作ってくれます。そのとき使うのは、1文字に1つの音を当てる「アルファベット式」です。下の欄に名前を入れると、同じ方式で書けます。ひらがな・カタカナ・ローマ字のどれでも入力できます。
nefertari(例:ネフェルタリ)
古代エジプトの言葉にない音(たとえば「お」や「え」)は、近い音の文字で代用しています。フクロウ𓅓は「m」、水𓈖は「n」、ライオン𓃭は「l」。ライオンは、プトレマイオス朝の時代に、ギリシャ語の名前の「l」を書くために使われるようになりました。
ヒエログリフは4世紀の終わりに使われなくなり、読み方は1,400年以上忘れられていました。最後に刻まれたヒエログリフの碑文は、394年。1/7に訪ねるフィラエ島にあります。
1799年、ナポレオンの遠征隊がロゼッタ・ストーンを見つけます。同じ内容の文章が、ヒエログリフ、デモティック(民衆文字)、ギリシャ文字の3つで刻まれた石でした。ギリシャ語は読めるので、ここから謎解きが始まりました。


手がかりは、カルトゥーシュに入った王の名前でした。ロゼッタ・ストーンにはプトレマイオス、フィラエ島のオベリスクにはクレオパトラの名前があります。フランスの学者シャンポリオンは、2つの名前に共通する文字に注目しました。
| 名前 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
|---|---|---|---|---|---|
| プトレマイオス(P-T-O-L-M-Y-S) | P 𓊪 | T | O | L 𓃭 | M |
| クレオパトラ(K-L-E-O-P-A-T-R-A) | K | L 𓃭 | E | O | P 𓊪 |
腰かけの形𓊪とライオン𓃭が、プトレマイオスでは1番目と4番目、クレオパトラでは5番目と2番目に現れます。ギリシャ語の綴りのPとLの位置と、ぴったり合いました。ヒエログリフが音を表す文字だという証拠です。シャンポリオンは1822年に解読を発表し、エジプトの歴史は一気に読めるようになりました。
古代エジプトの数字は、記号を必要な数だけ並べて書きます。旅程ページの日付の上に並べた縦線も、この数字です。
たとえば旅の年の2027は、ハスの花2つ、足かせ2つ、縦線7本で 𓆼𓆼𓎆𓎆𓐀 と書きます。第8章の数字の道具でも変換できます。
現地で開く章です。日ごとに、その日の物語と、場所ごとの「ここを見る」をまとめました。
記号はツアーのパンフレットと同じです。●入場して見学、◎降りて外から見学、○車窓から見る。ガイドさんへの質問の例も入れておきました。少人数のツアーなら、こうした質問から思いがけない話が聞けることがあります。
2日目 1月4日(月)
未明にカイロに着き、まだ暗いうちにギザへ向かいます。ギザはナイルの西岸、つまり「死者の側」の台地です。約4,500年前、ここに3人の王が続けて巨大な墓を造りました。午後は、そのすぐそばに2025年に開いた大エジプト博物館へ。いちばん古い遺跡と、いちばん新しい博物館を1日で見る日です。

ピラミッドの目の前に建つこのホテルは、1869年、エジプトの副王イスマーイールが狩りの館として建てた建物が始まりとされます。1886年にホテルになりました。
日本と関わりの深い歴史もあります。1943年11月、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、中華民国の蔣介石が、このホテルで会談しました(カイロ会談)。そこでまとめられたカイロ宣言は、日本が台湾や満州などを中華民国に返すこと、朝鮮を独立させることをうたいました。2年後のポツダム宣言には「カイロ宣言の条項は履行せらるべく」と書かれ、日本はこれを受け入れて戦争を終えます。朝食の席から見える庭は、戦後の東アジアの形が話し合われた場所でもあるのです。


世界最大のピラミッドは、約230万個の石灰岩のブロックでできています。1個の重さは平均約2.5トン。約20年かけて造られたと考えられています。もとは全体が白い化粧石でおおわれ、日の光を照り返して輝いていました。化粧石の多くは、のちにカイロの町を造るために運び去られました。
図は横にスクロールできます。

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仕組みの話
石はどうやって運ばれたのでしょう。本体の石灰岩は台地のすぐそばで切り出され、表面の白い化粧石はナイルの対岸のトゥーラから、王の間の花崗岩ははるか南のアスワンから、船で運ばれました。2013年、紅海の近くで見つかったパピルスに、トゥーラの石を船でギザへ運んだ役人メレルの業務日誌が書かれていました。今わかっている中で最も古い、文字の書かれたパピルスです。
造ったのは、食べ物と住まいを与えられて働いた労働者たちでした。奴隷が造ったという昔の説は、今では否定されています。1990年、ピラミッドの近くで労働者たちの墓が見つかっています(パンフレットの注1で、王妃のピラミッドの代わりに案内されるのがこの墓です)。王の間の上の「重力軽減の間」には、作業班が残した「クフの友」といった落書きがあり、このピラミッドがクフ王のものだという大切な証拠になっています。
今も調査は続いています。2017年、名古屋大学などの国際チームが、宇宙から降り注ぐミューオンという粒子を使ってピラミッドを透視し、大回廊の上に長さ30m以上の空間があることを発表しました。2023年には、北面の入口の上に隠れた通路があることを、カメラを差し込んで確かめています。
上昇通路では、前かがみの姿勢が数分続きます。首や腰に不安がある人は、無理に頭を上げず、足元を見ながら一歩ずつ進むと楽です。中は暑く、空気がこもっています。閉じた空間が苦手な人は、外で待つこともできます。
クフ王のピラミッドの東側には、王妃や王族のための小さなピラミッドが3基並んでいます。そのひとつに入り、急な通路を下って地下の部屋を見ます。注1にあるとおり、閉鎖されていれば別の場所に変わります。
パノラマポイントは、ギザの9基のピラミッドが一度に見渡せる砂漠の丘です(この予習帳の最初の写真)。3つの大きなピラミッドのうち、真ん中のカフラー王のピラミッドがいちばん高く見えますが、実際に高いのはクフ王のほう。カフラー王のピラミッドは少し高い地面に建っているのです。カフラー王のピラミッドの頂上には、白い化粧石が今も少しだけ残っています。

スフィンクスは、全長約73m、高さ約20m。台地の岩山をそのまま彫り残して造った像です。顔はカフラー王を表しているとされます。体をよく見ると、横じまの層ごとに削れ方が違うのがわかります。やわらかい層ほど風化が早く、深くえぐれているのです。

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2025年11月1日に正式に開館した、一つの文明を扱う博物館としては世界最大級の博物館です。10万点を超える文化財を収め、ピラミッドから約2kmの場所に建っています。建設には日本が円借款で842億円を貸し付け、文化財の保存や修復にもJICA(国際協力機構)を中心に日本の専門家が協力しました。



ここを見る

ツタンカーメンの展示だけで2時間かかると言われます。ガイドの案内のあとに自由時間があれば、見たいものを2つか3つに絞っておくと満足度が上がります。おすすめは、ツタンカーメンの部屋、大階段、クフ王の船の順です。
ガイドさんに聞いてみる
3日目 1月5日(火)
早朝の便でアスワンへ飛び、南へ280kmの砂漠を走ってアブシンベルへ向かいます。この日は、20世紀の大事業の日です。巨大なダムが国を変え、そのダムのために、3,200年前の神殿が丸ごと引っ越しました。

1960年から1970年にかけて、ソ連の協力で造られたダムです。高さ111m、長さ約3.8km。せき止められた水は、長さ約500kmのナセル湖になりました。世界でも最大級の人造湖です。
ダムができて、毎年の洪水は止まりました。1年中畑に水を引けるようになり、発電もできるようになりました。そのいっぽうで、肥えた泥が畑に届かなくなって化学肥料が必要になり、湖に沈む土地に住んでいたヌビアの人々、約10万人が移住を強いられました。
つながる話
はじめ、ダムの建設にはアメリカとイギリスが資金を出す予定でした。1956年に両国が支援を取りやめると、ナセル大統領はスエズ運河を国有化し、その収入で建設を進めると宣言します。これがイギリス・フランス・イスラエルとの戦争(スエズ動乱)につながりました。ひとつのダムが、世界の歴史を大きく動かしたのです。
アブシンベルまでは、ほとんどまっすぐな砂漠の道を約3時間30分走ります。途中のトイレ休憩は1回です。晴れた日には、遠くの地面が水たまりのように光る蜃気楼が見えることがあります。道の東側には、見えないところにナセル湖が広がっています。

ラムセス2世が前13世紀に造らせた2つの神殿です。大神殿は王自身と神々のために、小神殿は王妃ネフェルタリと女神ハトホルのために掘られました。ここはエジプトの南に広がるヌビアの地です。南から来る人々に、エジプトの王の力を見せつける場所でもあったのです。
神殿は長いあいだ砂に埋もれ、1813年にスイスの旅行家ブルクハルトが再発見しました。午後は湖の遊覧ボートから、夜は音と光のショーで、この神殿を眺めます。

ハイダムが完成すると、アブシンベル神殿は湖の底に沈むことになりました。そこでユネスコが世界に呼びかけ、神殿を丸ごと移すことになります。岩山の神殿を1,000個以上のブロックに切り分け、1個平均約20トンの石をクレーンで吊り上げて、約65m上、約200m奥の丘の上で組み直しました。背後の山は、コンクリートのドームの上に岩を積み上げた人工の山です。


つながる話
このとき世界中から集まった寄付と技術の協力が、のちの「世界遺産」の考え方の出発点になりました。1972年、ユネスコで世界遺産条約が採択されます。今回の旅で訪ねるフィラエ島の神殿も、同じ運動で救われた遺跡です。
ガイドさんに聞いてみる
4日目 1月6日(水)
夜明け前に起きて、開場前のアブシンベル神殿に入ります。神殿は東を向いているので、朝日が昇ると正面の巨像が赤く染まります。そのあとアスワンに戻り、いよいよナイルの船に乗り込みます。
1/6の日の出は6:34ごろ、神殿の一般の開場は6:00です。パンフレットの注7のとおり、日の出が開場より後になる時期は、朝日の時間には一般の見学者も入っている可能性があります。開場前の貸切は、日の出前の薄明かりの時間になる可能性があります。くわしくは添乗員に確認してください。
大神殿は、岩山の奥へ約60mまっすぐに掘られています。いちばん奥の至聖所には、4体の神像が並んで座っています。向かって左から、プタハ、アメン・ラー、神になったラムセス2世、ラー・ホルアクティ。年に2回、2月22日と10月22日ごろの朝、日の光が入口からまっすぐ奥まで届いて、右の3体を照らします。冥界とつながる神プタハだけは、光が当たらずに闇に残ります。


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話のタネ
壁の浮き彫りでは、ラムセス2世がたった一人で敵を打ち破ったように描かれています。けれども実際の戦いは引き分けに近いものでした。その後、エジプトとヒッタイトは前1259年ごろに平和条約を結びます。記録に残る中で最も古い平和条約のひとつで、その複製はニューヨークの国連本部に飾られています。
巨像は高さ20mあります。真下から見上げるより、少し下がって全体を見るほうが首は楽です。高いところの細部は、スマホを上に向けて撮り、画面を拡大して見るのもおすすめです。

正面に並ぶ高さ約10mの6体の像は、王が4体、王妃が2体。王妃が王と同じ大きさで表されるのは、とても珍しいことです。王妃の像の足元には子どもたちの小さな像が寄り添っています。中に入ると、柱の上にハトホル女神の顔が彫られています。


アスワンは、ナイルの流れに岩が多くなる「第1急流」のすぐ下にある町で、古代エジプトの南の国境でした。川の中のエレファンティネ島には、古代の町と、ここにもナイロメーターがあります。西岸の丘の上には、古い時代の貴族の墓がならびます。
ファルーカは、三角の大きな帆を1枚だけ張る、エンジンのない船です。北風を受けて南へ進み、北へ戻るときは流れに乗ったり、風に対してジグザグに進んだりします。第1章で読んだ「北へは流れ、南へは帆」が、そのまま体験できます。日の入りは17:15ごろ。川の上は思った以上に冷えるので、上着を。
話のタネ
川辺に建つオールド・カタラクト・ホテルには、作家アガサ・クリスティーが滞在しました。ナイル川の観光船を舞台にしたミステリー『ナイルに死す』には、このホテルも登場します。クルーズの前に読んでおくと、船旅がひと味違って見えます。

ここから3泊、同じ船で暮らします。部屋の窓はナイル側。船はおもに夜から朝にかけて移動し、目が覚めると次の町に着いています。船内では、ヒエログリフや地元の暮らしについてのミニレクチャー、ベリーダンスのショー、ガラベイヤ・パーティーが開かれます。
ガラベイヤは、エジプトの男女が着るゆったりした長い服です。パーティーの日に合わせて、アスワンの店や船の売店で買っておくと楽しめます。パーティーの日時は船内の案内で確認してください。
5日目 1月7日(木)
午前はボートでフィラエ島へ渡り、女神イシスの神殿を訪ねます。午後は船でコムオンボへ。どちらもプトレマイオス朝の神殿で、オシリス神話の舞台です。この日は、コプト正教会(エジプトのキリスト教)のクリスマスでもあります。

イシス神殿は、エジプトでイシス信仰がいちばんさかんだった聖地です。おもな建物はプトレマイオス朝からローマ時代のもので、エジプトの神殿の中でも最後まで古い神々への祈りが続いた場所でした。
1902年に旧アスワンダムができてから、神殿は1年の大半を水に沈むようになります。さらにハイダムで完全に水没するおそれが出たため、1972年から1980年にかけて、隣のアギルキア島へ移されました。新しい島は、元の島の形に似せて削り直されています。

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名産品の香水瓶の店では、吹きガラスの細い瓶と、花の香りのオイルが並びます。買うつもりがなければ、見るだけでも大丈夫です。

ナイルの曲がり角の小高い丘に建つ神殿です。プトレマイオス6世(前2世紀)が建て始め、その後の王たちが増築しました。この神殿は「二重神殿」と呼ばれます。北側の半分がハヤブサの神ハロエリス(大ホルス)、南側の半分がワニの神ソベクのためにあり、入口も通路も至聖所も、2つずつ左右対称に並んでいるのです。


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6日目 1月8日(金)
朝は馬車に乗ってエドフのホルス神殿へ。昼は船でエスナの水門を通り、夕方にルクソールへ着きます。夕日のあと、ライトアップされたルクソール神殿を歩きます。金曜日はイスラームの礼拝の日で、エジプトの休日です。

前237年から前57年まで、約180年かけて建てられたプトレマイオス朝の神殿です。エジプトで最も保存状態のよい神殿と言われます。長いあいだ砂に埋もれ、上に村の家が建っていたことが、かえって神殿を守りました。19世紀にフランスの考古学者マリエットが掘り出しています。
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船着き場から神殿までは馬車で行きます。御者からチップを求められることがあります。添乗員の指示に従ってください。
エスナには、ナイルをせき止める堰があり、そこを船が通るための水門があります。水位の差は約6m。エドフからルクソールへは川下りなので、船は水門の中で約6m下がります。大きな船がエレベーターのように沈んでいく様子は、船の甲板から見ると迫力があります。
水門の前では、小舟の物売りが船に近づき、ビニール袋に入れたテーブルクロスやガラベイヤを甲板まで投げ上げて値段交渉をすることで知られています。買わないものは投げ返して大丈夫です。エスナの町には雄羊の神クヌムの神殿があり、近年の清掃で天井の鮮やかな色がよみがえりました(今回は寄りません)。

ルクソール神殿とカルナック神殿は、両側にスフィンクスが並ぶ約2.7kmの参道で結ばれていました。年に一度の「オペト祭」では、カルナックの神々の像が舟に乗せられ、この道とナイルを通ってルクソール神殿へ運ばれました。参道は長く町の下に埋もれていましたが、発掘と整備が終わり、2021年11月に盛大なパレードとともに再び公開されました。

ルクソール神殿は、おもにアメンホテプ3世とラムセス2世が建てました。エジプトの神殿は、奥の至聖所を中心に、前へ前へと増築されていくものです。入口からの順番を時代とあわせて見ると、神殿の育ち方がわかります。
色は時代を表します。青=新王国、緑=アレクサンドロスとプトレマイオス朝、黄=ローマ。入口の側ほど後から足された部分です(奥の祠と壁画の部屋は、古い部屋の中に後から作られました)。

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帰りにスーパーに寄ります。ハイビスカスのお茶カルカデ、スパイス、デーツ(ナツメヤシの実)などを、おみやげ店より手ごろな値段で買えます。夜はオプション(別料金)で、カルナック神殿の音と光のショーと、ルクソール博物館に行けます。
7日目 1月9日(土)
船を降りて、午前は西岸の「死者の町」へ。王家の谷で2つの王墓に入り、女王の葬祭殿を訪ねます。午後は東岸に戻って、エジプト最大の神殿カルナックへ。夜の便で帰国の途につく、旅でいちばん長い日です。

パンフレットでは3か所とも「○(車窓)」です。バスの窓から見ることになります。

新王国の王たちは、ピラミッドを造るのをやめ、この谷の岩盤の中に墓を掘りました。目立つピラミッドは、盗掘の目印にもなってしまったからです。谷の上にそびえる山「エル・クルン」は、自然のピラミッドのような形をしています。王たちは、この山をピラミッドの代わりにしたとも言われます。谷には60以上の墓が見つかっています。
ツタンカーメン王墓は、王の墓としてはとても小さく、部屋は4つだけです。若くして急に亡くなったため、本来は別の人のために掘っていた墓を急いで使ったという説があります。小さく目立たなかったことと、後の時代の墓の工事で入口が埋もれたことが、3,000年以上盗掘から守ったのかもしれません。

ツタンカーメン王墓で見る

セティ1世の墓で見る

墓の中の撮影のルールは墓ごとに違い、撮影券が必要な墓や、撮影できない墓があります。フラッシュはどこでも禁止です。入る前に添乗員に確認しましょう。天井の天文図は、真上を見上げ続けると首が疲れます。少しずつ場所を変えて見るか、スマホで撮って画面で見ると楽です。
カーターが1910年に建て、ツタンカーメン王墓を発掘していた時期に暮らした家です。今は小さな博物館になっていて、机や写真の暗室、発掘の道具が当時のまま残っています。近くには、ツタンカーメン王墓を精密に複製した展示もあります(今回入るかは現地で確認)。王墓を見た直後に、それを見つけた人の机を見る順番になっています。

崖のふもとに、3段のテラスを重ねた葬祭殿です。設計したのは女王の側近センエンムトとされます。背後の切り立った崖と、横に長い柱廊の組み合わせは、3,500年前のものとは思えないほど現代的に見えます。

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畑の中に座る2体の巨像(高さ約18m、第3章の写真)は、アメンホテプ3世の像です。うしろには巨大な葬祭殿がありましたが、ほとんど失われ、今も発掘が続いています。前27年の地震でひびが入ったあと、北側の像は明け方になると音を出すようになり、ギリシャ神話の英雄メムノンが母に呼びかける声だとして評判になりました。ローマ皇帝も聞きに来たほどです。2世紀の終わりごろに修理されると、像は二度と「歌わなく」なりました。


神々の王アメンの神殿を中心とする、エジプト最大の神殿群です。約2,000年にわたって、30人以上の王が増築を続けました。そのため、奥へ進むほど古い時代にさかのぼっていく構造になっています。
色は時代を表します。灰=新王国より後、青=新王国、砂色=中王国。いちばん古い中心部のさらに奥には、トトメス3世の祝祭殿もあります。

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大列柱室は、見上げたくなる場所の連続です。柱の根元から少し離れて、柱と柱のあいだの空を見るように視線を上げると、首を大きく反らさずに高さを感じられます。
ガイドさんに聞いてみる
夕方、空港へ向かいます。余ったエジプト・ポンドは、空港の店で使い切っておきましょう。
献立に出てくる料理の名前と、おみやげの見分け方。
| 日 | 料理 | どんな料理か |
|---|---|---|
| 1/4 昼 | コフタ | スパイスを混ぜたひき肉を棒の形にして焼いたもの。チキンと一緒に出る。 |
| 1/4 夕 | シシタウーク | ヨーグルトやにんにく、レモンに漬けた鶏肉の串焼き。 |
| 1/4 夕 | コシャリ | ご飯、マカロニ、レンズ豆、ひよこ豆にトマトソースと揚げた玉ねぎをのせ、酢のソースをかけて混ぜて食べる。エジプトの国民食。 |
| 1/5 昼 | ムサカ | エジプトのムサカは、なすとひき肉のトマト煮込み。ギリシャのもののようなホワイトソースは使わないことが多い。 |
| 1/5 昼 | 魚のタジン | 土鍋で魚や野菜を煮込んだ料理。 |
| 1/9 昼 | モロヘイヤスープ | 刻んだモロヘイヤをにんにくと合わせて煮た、とろみのある家庭料理。パンやご飯にかけて食べる。 |
| 1/9 夕 | 和食弁当 | 帰りの飛行機に乗る前の夕食。 |



ひと言のアラビア語と、値札の数字の読み方。
エジプトの言葉は、アラビア語のエジプト方言です。観光地では英語も通じますが、ひと言でもアラビア語で話しかけると、相手の顔がぱっと明るくなります。
| 意味 | 言い方 | 使う場面 |
|---|---|---|
| こんにちは | アッサラーム・アレイクム | どんな相手にも使える丁寧なあいさつ。返事は「ワ・アレイクム・ッサラーム」 |
| やあ/ようこそ | アハラン | 軽いあいさつ。「アハラン・ワ・サハラン」なら「ようこそ」 |
| おはよう | サバーフ・エル・ヘール | 返事は「サバーフ・エン・ヌール」 |
| こんばんは | マサー・エル・ヘール | 夕方から |
| ありがとう | シュクラン | 「シュクラン・ギッダン」で「どうもありがとう」 |
| どういたしまして | アフワン | お礼を言われたとき |
| いりません | ラー・シュクラン | 物売りや客引きを断るとき |
| はい/いいえ | アイワ/ラー | |
| いくら? | ビカーム? | 買い物で |
| 高すぎる! | ガーリー・アウィ | 値段交渉で、笑いながら |
| OK/いいね | タマーム | エジプトでとてもよく使う言葉 |
| 問題ない | マフィーシュ・ムシュケラ | 「大丈夫」の意味で |
| すみません | ラウ・サマハト | 呼びかけるとき(女性には「ラウ・サマハティ」) |
| トイレはどこ? | フェーン・エル・ハンマーム? | |
| 水 | マイヤ | |
| いいね・きれい・おいしい | ヘルウ | 料理や景色をほめるとき |
| 日本から来ました | アナ・ミン・エル・ヤーバーン | どこから来たか聞かれたとき |
| ゆっくり | ショワイヤ・ショワイヤ | 「少しずつ」の意味も |
| 神が望めば | インシャアッラー | これからの予定の話に添える言葉。「たぶん」くらいの意味で使われることも |
| さようなら | マア・ッサラーマ | 別れるとき |
エジプトの値札、バスの番号、紙幣には、私たちの数字とは違う「東アラビア数字」が使われていることがあります。文字は右から左に書きますが、数字は私たちと同じく左から右へ読みます。
1ポンド ≒ 3円は2026年秋の目安です(1ドル ≒ 50ポンド、1ドル ≒ 150円)。旅行の前に、その時のレートに変えて使ってください。紙幣は5・10・20・50・100・200ポンドなどで、10と20ポンドにはプラスチックの新しい札もあります。
気持ちよく見て回るための、ちょっとした決まりごと。
この旅は、見上げる場所の連続です。アブシンベルの巨像は20m、カルナックの柱は21m、王墓の天井には星空。首や腰に不安がある人は、次の3つを覚えておくと楽になります。
出発までの時間に。
写真はすべてウィキメディア・コモンズで公開されている、自由に使えるライセンスの画像です。サイズを縮小して使っています。図解は、この予習帳のために描いた模式図です。